講師紹介

幼少の頃

本人の希望で6歳でヤマハ音楽教室の幼児科に入室。
偶然、広島支店でトップと言われていた原田敦子先生のクラスに入り、他のご家庭が全部セレブで母がびっくりする(父の勤務先の上司のお子さんや、地元企業の社長令嬢も)。
当時家にピアノはなく、小さいおもちゃのピアノがあったのみ。
小さいおもちゃのピアノで熱心に弾いているのを見かねた祖母が、アップライトピアノを買ってくれる。
この時についた先生には、先生が転勤で広島を離れる中学2年生までの8年間、指導を仰ぐ。
ドレミの「ド」から教えていただいた、文字通り「第二の母」である。

小学生 

傍目からは運動以外はなんでもできる優等生。
特に文章を書くのが得意で、感想文コンクールや学校外の作文コンテストで入賞。
自己主張も激しく、先生の意見に納得できないと勝手に学校から帰ってしまうこともあった。
ヤマハ音楽教室では、当時始まったばかりのジュニア専攻科特別クラスに進級。
TBSの音楽番組「オーケストラがやってきた」の広島での収録に出演したり、「ビューティフルサンデー」で一世を風靡した田中星児と共演するなど、華やかな舞台を経験する。
高学年になってから、弟が難病であることがわかり、母の関心が弟に集中したため、「一番でなければいけないが、一番になっても誰も褒めてくれない」と思いこんだ。
ヤマハで同じ先生のもとで学んでいた先輩に憧れて、中学受験を決意したものの、両親に「ピアノをやめないなら塾に行かせる余裕はありません」と言われる。
当時、とある塾に、その塾に通う子たちが受ける毎週末のテストに、外部からも参加できるというプログラムがあった。
父に頼み込んで、なんとかそれだけは行かせてもらえた。
が、1週間学んだことの総まとめをする塾の子達にかなうわけがない。
それでも独学で中学受験を決行。
夜中に勉強をしていたら怒られるので、父が寝てからこっそり電気をつけて勉強していたが、近所のおばさんに通報されてあえなく発覚。
最終的に両親も協力してくれるようになった。
第一志望だった憧れの先輩の通う国立大学附属中学には受からなかったが、受験中に大いに気に入っていたノートルダム清心中学校に合格。
「私立なら受かっても行かせない」と言っていた父だが、当時ノートルダム清心の同窓会の役員をなさっていて、私が通っていた小学校のPTA役員でもあった方(ついでに、父が勤務する会社の取締役の奥様だった)が両親を説得してくださり、なんとか入学することができた。

中学生 

郊外の小学校では何事にも期待されていて辛かったが、中学校では「もう一番じゃなくてもいいんだ」と思い、いっきに気が抜ける。
というより、勉強しなくてもできる、自分よりはるかに優秀な同級生を見て気が楽になる。
「お嬢様学校」の評判とは裏腹な、実は豪胆な人の集まりだったこともあり、高校卒業時には母から「あなたの青春に悔いはないわね」と言われるほど楽しんだ。
中二から高3まで放送部。
高校では部長もつとめた。
朗読部門では県大会で優勝、ラジオ番組部門では演技賞(麻薬の密売人の役)。
グレてはなかった(と思う)が、良い子でもなく、相変わらず生意気で、「学校での態度が悪い」と母が担任に呼び出されたことは数回。
それでも、「あの子は芸術系に進む子なので、多少のことはおおめに見ましょう」と言ってくれた先生方のおかげで、退学にもならず、部活、ボランティア活動、体育祭、文化祭、と勉強以外で中高時代を楽しみ尽くした。
当初、大学進学には作曲科を目指していたが、筆が遅いのと、分析や文章を書くことが好きだったので東京芸大楽理科を第一志望とした。
「私立の音大はうちでは無理」と言われていたので、地元のエリザベト音大だけを滑り止めにした。
ところが共通一次の受験票を2次試験に持っていくのを忘れる。
そのせいか、極度の緊張で得意な和声の問題もほぼ手付かず、英語もさっぱりであえなく不合格。
浪人する気でいたら、エリザベト音楽大学に学費全額免除の特待生で合格したため、母に泣きつかれて浪人を諦めて入学した。

学生 

ほぼ絶望的な思いで入った大学だった。
が、音楽学科は一学年6人に対して先生が4人もつくという贅沢な学科。大学生時代が一番勉強した。
3年生になった時に出会った副科声楽の先生に誘われて、その先生が演出するオペラの演出助手になる。
その後、その先生を中心にして創設したオペラ団体(Hiroshima International Opera Studio)に実行委員として運営にも参加。
当時、エリザベト音大に大学院はなく、卒業後1年間だけ学べる「専攻科」というのがあった。
卒業したら別の大学の大学院に行こうと思っていたが、当時学長だったスペイン人の指導教官に「再来年必ず大学院を作るから、専攻科に残りなさい」と言われ、専攻科に進学。
指導教官であった恩師が国内外の演奏者や指導者を招くときは、学生でありながら常に同席する機会をもらい、一流を身近に感じる経験をさせてもらった。恵まれた学生時代だった。
講談社が発行した「ニューグローブ音楽大辞典」の翻訳者として名前を連ねるチャンスも与えてもらった。
他の科の先生にも可愛がっていただき、国立音楽大学学長の武田忠義先生のCDや演奏会のプログラムノートを在学中に書かせていただいたり、お茶の水女子大学の元学長で名誉教授の作曲家近藤譲先生と一緒に仕事をさせていただいたりもした。
学外では、別の大学の学生とジャズバンドやソウル系のバンドを組んでライブハウスで演奏していた。

結婚 

修士課程の2年目で高校時代から付き合っていた人と学生結婚。
博士課程の2年目で夫が海外転勤となって渡米。

渡米

カリフォルニアは典型的な車社会。運転ができなければ買い物にもいけない。
渡米してから最初の半年間は、免許も車もなかったので、夫が会社に行っている昼間は文字通りの引きこもり状態。
当時は家にピアノもなく、いったい自分が何のために生きているのかわからなくなりそうだった。
アメリカで大学院に入る予定だったが、留学したい大学の教授に面会して、修士論文の要旨を見てもらい、「興味深いので全文を英訳して持ってきなさい」と言われた翌日、母が倒れる。
もやもや病という持病を持ちながら祖母を介護していた母は脳内出血を起こして倒れた。
私の渡米前から、主治医に「もういつ倒れてもおかしくない状態」とは言われていたので、離婚してでも日本に残るべきかと考えたこともあった。
アメリカの大学側は、帰国していた私に、日本で受験をしても良いと言ってくれたが、母の危篤状態が続き、何を読んでも頭に入らないので、受験を断念。
三ヶ月間意識不明が続いた後、私の親友が亡くなったことを耳元で報告したのをきっかけに、母は意識を回復。
しかし、こちらの言葉は理解しているものの、脳の損傷が激しく発語することはなかった。
それから3年と9ヶ月、母が2回目の発作で亡くなるまで、日本とアメリカの行ったり来たりの生活となる。

ワンオペ育児

田舎の本家の長男である夫と結婚してしまったので、結婚してからすぐ周囲から子供を望まれたがなかなか恵まれず、嫁ぎ先では肩身の狭い思いをしていた。
完全に諦めていた頃、母が亡くなって一年経ってから妊娠(35歳)。
ちょうど近隣のオペラ団体(Long Beach Opera)で演出の手伝いをしていた時で、この国での仕事のきっかけを掴んだと思っていたころだった。
大きなお腹を抱えてリハーサルに参加した。
コーラスと一緒に思わず踊ろうとして、周りの人に取り押さえられることも。
演目はヤナーチェクの「イェヌーファ」、子殺しがテーマで胎教にははなはだ悪かったと思う。
アメリカでは一瞬でも子供を一人にしていてはいけない。
寝ているからちょっとそこまでお買い物に、は犯罪。
その上、母はすでに他界、妊娠中に祖母も亡くし、心置きなく相談できる相手は皆無。
夫は典型的な日本のサラリーマンで、完全なワンオペ育児。
郵便局に手紙を出しに行くのにも、一苦労だった。

娘の事

娘は風邪ひとつひかない元気な子供なのに、体が小さかったせいで、小児科医に虐待を疑われたこともある。
「血液検査をして、もし栄養不良だった場合には、警察に通報します」と言われもした。
病院の検査室で泣きじゃくる娘を「押さえておいてください」と検査技師に言われ、大人と同じ太い針で血液検査をされる娘を見て、自分の方が気を失った。
娘の幼児教室のお友達のおばあちゃん(広島出身)と電話で話した時、「マダム、『お母さん、ちょっと見ててちょうだい』といえないここでの子育てはしんどいですね」と言われて号泣したこともある。

ピアノを教え始める

ちょうどこの頃から、近所の人に頼まれてピアノを教え始める。
実はピアノを英語で教えるのは初めてではなかった。学生時代、
広島に駐在していたアメリカ人家族の子供を数人教えていたことがあったかららだ。
が、全くの初心者をレッスンするのは初めて。
日本の子供たちならなんなくできるはずの、「音楽に合わせて手を叩く」や「音楽に合わせて行進する」ができない子が多くて驚く。
また日本ではほとんど見かけたことのない、いわゆる「音痴」が多いのにも驚いた。
日本の小学校一年生から中学卒業まで行われる、週に1回の音楽の授業が実は非常に効果的なのではないかと改めて気づく(カリフォルニアではほとんどの小学校が4年生くらいまで「音楽」の授業がない)。

転機

娘が2歳になる前、あるきっかけからハリウッドにあるアイバーシアターで、原爆をテーマにした音楽劇「撫子」を製作、演出、ピアノも弾いた。
公募で集めた出演者は、のちに世界を舞台に活躍する松崎悠希(「硫黄島からの手紙」「ピンクパンサー」)、増山久人(ミュージカル「シカゴ」「ファントム」)、たまたま留学していた元宝塚娘役の稜あきの。
しかも、二日公演で両日ともほぼ8割の入り。今から考えても奇跡が起きたとしか思えない。
妊娠中に恩師原田敦子編の「うたう指づくり ピアノ名曲レパートリー」全五巻の編集と解説を担当。

子育て

「撫子」公演後しばらくは、娘の子育てに従事した。
大学時代のスペイン人指導教官に「バイリンガルにするよりも、日本語が大切。あなたと同じ言葉が心から話せなくて、彼女に悲しいことが起きた時、誰が彼女の心を慰めるのか」と言われ、徹底して日本語中心の生活にする。

娘が小学生になった頃からピアノ教室を本格的にスタート。
家が小学校から直近だったこともあり、クチコミで数人が集まった。
駐在員のお子さんか、お母さんかお父さんが日本人という日系人の子供たちがほとんど。
中には、日本語学校の宿題が多すぎて、普段は練習をしてこないが、
夏休みになったら伸び伸びと練習に力を入れる子もいた。
日本語と英語の両方を学ばなければいけない子供たちの辛さが身にしみた。

娘に週末の日本語学校を2年生で退学させたのはその時の経験から。
もっと自由に好きなことを楽しませてやりたいと思った。
その代わり、通信添削を取り寄せて日本語の勉強をさせた。
しかし、彼女が完全なバイリンガルなのは、おそらく毎朝5時に起きて二人で本を音読したからだと思う。
これは高校卒業時まで続いた。

娘はほぼ全く英語ができないでキンダー(日本の年長さん。ここからが義務教育となる)状態で入学。
ある日、学校の近くを通りかかったら、ちょうど休憩時間だった。
滑り台に並んでいる子に娘が話しかけようとしたら、ぷいと横をむかれていた。娘は反対側に入り込んでもう一度話しかける。
再度無視。それでもめげずに学校には通っていた。
毎朝、「お母さん、今日もしっかり遊んでくるよ」と言って出かけていたが、軽いいじめにはあっていたようだった。

2年生の時に担任だった先生が人種差別傾向のある人。
娘が、背の低いクラスの同級生が毎回席替えの都度、コンピューターのディスプレイの前に座らせられるのを「不公平だ」と先生に訴えたことから、娘への嫌がらせが始まる。
なんだかおかしいと思って、当時のピアノの生徒で同じ小学校に通っていた子のお母さんに聞いたら、「その先生のせいで、転校した子が何人もいます!」という話。
ところが、カリフォルニアでは、勤続年数の長い先生は問題を起こしても辞めさせられない、という法律がある。
教育委員会に訴えたがダメだった。

「一人一人のお子さんの能力に応じて宿題の内容が違います」という名目で、娘に与えられた本は、ベネズエラの建国の歴史。
この本を四日で読んで要約してこいと言われた。
娘は英語が第2国語とカテゴライズされている。
スペイン語混じりのこんな本が読めるわけがない。
明らかにいじめ。
「こんなの、逆上がりができない人に、大車輪をやれって言ってるのと同じだよ」とあきらめるように娘を説得したが、「いや、やる」というので、親子で辞書を引きながら毎晩11時までかかって完成。
結局その先生は、その年の終わりに退職。
1年間の戦いはなんだったのかと、親子で力が抜けた。

4年生の時の先生が娘を理解してくれ、
「あなたのようなout of the box(普通と違う考え方)の人は、ここにいては伸びない」と言って、GATEというプログラムに推薦してくれた。
Gifted and Talented Educationというこのプログラムは、知能指数が高かったり、特殊な才能や感性を持っていたりする子供を集めて、その子たちのニーズにあった教育をするというプログラムだ。
一応知能テストのようなものがあるのだが、娘の場合は担任の強い推薦で、点数が多少足りてなかったにもかかわらず、5年生と6年生をそのプログラムで過ごした。
娘曰く、「本を読んでも、ビデオを見ても、その後の感想を誰とも話ができなかった(感動を共有できなかった)。
GATEのクラスでようやく居場所ができた」。

音楽劇「撫子」のせいで「世の中の人はみんな歌って踊る」と信じていた娘はミュージカルにはまっていく。
4年生の時に入った地元のミュージカル劇団に夢中になっていった。
5年生になる前に夫の帰任が決まったが、「ミュージカルがやりたい」という娘の希望を叶えたいと思い、二人でアメリカに残ることを決める。
当時住んでいた家の大家さんのご好意で、下宿人を置くなどして家計の足しにしたが「年収800万円以下は貧困層」と言われるカリフォルニアで、苦しい生活を強いられた。
この5年間でわずかな蓄えも底を尽きる。

週末の小学生向けミュージカルクラスに通っていたOrange County School of the Arts(中高一貫のアート系チャーター校)で、担当していた先生に「あなた、うちの学校を受験してみない?」と言われた娘は大いにその気になる。
その担当の先生が受験の面倒も見てくれるというので歌と芝居のレッスンが本格的に開始。
これがまた、ものすごいストレスで、私の10本の指の爪が全部変形した。
日本人だから、外国人だから受験情報がないのかと思っていたら、後で聞いたらアメリカ人のお母さんたちも同様だった。
万全を期して臨んだ受験だったが、4月の発表では惜しくも補欠。
それでも夏には毎年辞退者が数人出るから繰り上がるよと言われ、学校からの連絡を心待ちにしたが、その甲斐もなく夏が終わる。再度受験をすることを決める。
次の受験に向けて準備をしていた11月終わり、「一人退学者が出るのですが、来期からうちの学校に来る気はありますか」というメールを娘が受け取る。
地元中学校でも軽く人種差別を受けて鬱々としていた娘は二つ返事。
親子で号泣した。
怖いもの知らずとはこのことで、後で聞いたら、Orange County School of the Artsのミュージカル科は超難関で、倍率は20倍から30倍。
よく受かったと思う。
この受験のための歌のレッスンについていき、娘の伴奏をしていたことから、学校に伴奏者として雇われることになる。これをきっかけにヤマハ音楽教室を退職。
以後、Orange County School of the ArtsのMusical Theatre Conservatoryで伴奏者として、ブロードウェイ経験者の先生たち(「Book Of Mormon」のオリジナルキャストScott Barnhard、「Band Stand」のJessica Lee Pattyら)とともに、ブロードウェイを目指す中高生たちの夢のお手伝いをすることになる。

受験準備をしていた6年生の時、地元のミュージカル劇団で「アニー」の公演が決まった。
徐々に大きな役をもらっていた娘は「アニー」のオーディションを受けるという。
会場についてみると、3、40人いる女の子は全員白人。
帰ろう、無理だよ、私たちはアジア人なんだ、という私の声を振り切って娘はオーディションを受けた。
一次通過の発表で名前を呼ばれた時、周りの子たちの視線が恐ろしかった、とのちに娘が語っている。
二次発表までは生きた心地がしなかったが、トリプルキャストの一人として選ばれた。最終公演の時、カーテンコールで、100人近い子供を含むキャストの中から、サンディ役の犬を従えて真ん中で「トゥモロー」を歌う娘を見た時、涙が止まらなかった。

中高も、見えない差別に苦しんだ。
加えて、親が職員、というのはなかなか辛いものがあるのではないかと思ったが、本人は私がクラスの担当になってもいたって平気で「エコひいき?ラッキー!」くらいにかまえていた。
学校では毎月毎月なんらかのオーディションが行われる。
子どもによってはその都度「あなたは才能がない」「あなたは必要ない」と言われていると捉える子もいる。
が、娘は落ちても決してめげなかった。
結果、中学高校の間、大きな役はなかったが、ずっと舞台に上がり続け(在学中一度も舞台に上がれない子もいる)、9時より前に家に帰ってきたことはほぼない。
娘が10年生の時(高校一年生)夫が再度カリフォルニアの支社に赴任。家族3人の生活が再開。
高校三年生の半分が高校の専攻ではない学科に進む中、娘はミュージカル専攻一択で大学受験。
結果、ニューヨーク大学、UCLA、ペンシルバニア州立大学などに合格。
ニューヨーク大学は16000ドル(約200万円)の奨学金をもらっても年間8万ドル(約990万円)の学費が必要。
加えて、コロナでの学生に対する対応に疑問が生じて、娘本人が断念(私は今でも、なんとしてでも行かせてやるべきだったかと後悔)。
親は学費の安いカリフォルニア州内のUCLAに行かせたかったが、娘本人はミュージカル科のレベルの高いペンシルバニア州立大学に行きたがった。
ペンシルバニアだと州外なので学費がUCLAの倍。娘は学部長に自ら交渉して奨学金を獲得。
晴れてペンシルバニア州立大学の学生になっている。

ピアノのレッスン

自宅でのレッスンに加え、2015年よりサンタアナにあるモンテッソーリ国際学園でも個人レッスンを開始。
小さい生徒さんには「Coolな先生」「一生懸命になると顔がちかくなる」などと言われて親しまれている。
また、大人の生徒さんには「楽譜を通して作曲家の考えを語れる楽譜の通訳者」「レッスンで音楽の裏話を聞けるのも楽しい」などと評判。
コロナ禍の2020年9月、アーバイン市に住所を移し、本格的にレスナーとしての活動を行う。

生徒さんの成長

決して練習を強制することはしないが、カリフォルニア州の音楽指導者協会(Music Teachers Association of California)主催のグレードテスト(Certificate of Merit)では、毎年受験者全員が、優秀な成績で合格。
しかも、レパートリー、テクニック、初見演奏の各分野で最高点のExcellent、音楽理論で満点、というパーフェクトスコアを達成する生徒さんもある。
これは、グレードテスト前に行った、忙しい子供達がいかに効率的に短時間で課題をこなすことができるかという対策を示した、保護者に対する講座による指導の成果と自負している。

アメリカ生活28年

アメリカ生活28年の間に見聞きし経験したことは、ここでは描き尽くせないほど。
その経験から、海外で子育てをするお父さんお母さんのお役に少しでも立ちたいと日々考えている。
私も、仕事も学業も中途半端のまま、いわゆる「駐妻」としてここに来てしまった。
大学院の同期生が、母校の講師になったとき、子育ての真っ最中だった私は、自分の人生の何かが間違ってしまったのかも、と思ったりした。
駐在帯同でいらした方の中には私と同じように感じていらっしゃる方も多くあるのではと思う。
しかし、人生は何があるかわからない。私の場合、娘がミュージカルに夢中になったせいで、再びミュージカルの舞台と関わることになった。
しかも同僚は、ブロードウェイ経験者がほとんどという贅沢な環境でだった。
以前の生徒さんの中には、帰国後に保育士の免許を取りたいから、とピアノのレッスンに来られていた方もある。
「海外で子育てをする」というこの稀な機会をぜひ、お子様だけでなくお母様お父様の豊かな人生のために役立ててほしいと思うし、そのお手伝いをしたいとも思っている。